軍師官兵衛の備中高松城水攻めと毛利氏墓所 [広島情報]
NHK大河ドラマ軍師官兵衛もいよいよ
後半に入り、見どころ満載となりそうです。
7月13日(日)19:30より、「本能寺直前SP」
として特番が組まれています。
必見ですね
西国の覇者毛利氏との決戦を前に、
日本史上初となる備中高松城水攻め
が敢行された上に、本能寺の変という
これまた戦国史上一大事件が勃発。
岡田准一さん演じる軍師官兵衛も、好青年から
軍略冴えわたる老獪な軍師へと変貌を遂げた。
このとき既に毛利元就は他界しており、
孫の輝元が最高指揮官として指揮しています。
元就の時代は信長と良好な関係を維持して
いましたが、輝元の時代になり次第に敵対
するようになっていました。
毛利家の方針には毛利両川と呼ばれた
吉川元春、小早川隆景の影響も少なからず
あったとは思います。
孫、輝元のおこないに、元就は墓の中で
どのような思いをしていたのでしょうか...
出典 http://www.amazon.co.jp
毛利元就生誕500周年記念作品として製作された、
NHK大河ドラマ「毛利元就」(1997年)の放映時は、
たくさんの人が訪れた郡山城跡
再び訪問してみました。
・百万一心
一日(百)一力(万)一心とも読める。
みんなで力を合わせれば何ごともなし得ることが
できるとの意味を込めたものと言われている。
百万一心石碑の由来
難航する郡山城の改修に際して、元就公が人柱に
代わり、「百万一心」と彫った石を埋めさせたところ、
改修工事がうまくいったという伝説です。
その後、幕末に長州藩士が山中で実物を発見したと
自書していますが、現在に至ってもその石は未発見の
ままで、郡山城最大の謎とされています。
そうなんです、あくまでも伝説なんです。
ただ、国人衆をまとめるために苦心した
元就公の人となりを思えば、実在した可能性も
決して否定できるものではないでしょう。
「三矢の訓え」でも元就公は結束・協調を
大切にするようにと説いていますから...
・毛利一族墓所
ちょっとわかり難いのですが、石柵で囲まれた
中心部のこんもりとしたところに一族の合墓が。
(郡山城初代城主・毛利時親~8代豊元まで)
その他、興元(元就の兄)、幸松丸(興元の嫡男)、
隆元の妻(大内氏の養女)の墓が各々あります。
この毛利一族墓所は、郡山城内、城下にあった
それぞれの墓を明治二年(1869)にこの洞春寺跡の
元就公墓所境内に移葬されたもの。
・墓所敷地内に休憩所があります。
本丸跡まで800mのところにある。
・安芸高田市歴史民俗博物館
(百名城スタンプ設置所)
毛利氏や郡山城に関する貴重な資料が豊富に
展示され、映像や模型などでわかりやすく学べる。
特に清神社棟札など中世の寺社奉納品は必見。
・毛利元就公墓所
中国地方を平定した戦国の勇将毛利元就は、
郡山城で生まれ、郡山城で75歳の生涯を閉じる
まで、戦乱の日々をこの安芸の国吉田郡山城を
本拠に過ごしました。
・洞春寺跡
洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元年
(1573)に菩提寺として、孫の輝元が創建し、
元就の葬儀の導師を開山とした臨済宗の寺跡。
輝元の広島移城の際、広島城下に移ったが、毛利氏と
共に山口に移転、まもなく萩城下に移された。
明治二年(1869)、再び山口市内に移された。
ドラマの中で元就は、
「人生には三つの坂がある。上り坂と下り坂、
そして.....『まさか』だ」と言っています。
まさか毛利家が...
なんて思っていたりするのでしょうか?
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後半に入り、見どころ満載となりそうです。
7月13日(日)19:30より、「本能寺直前SP」
として特番が組まれています。
必見ですね
西国の覇者毛利氏との決戦を前に、
日本史上初となる備中高松城水攻め
が敢行された上に、本能寺の変という
これまた戦国史上一大事件が勃発。
岡田准一さん演じる軍師官兵衛も、好青年から
軍略冴えわたる老獪な軍師へと変貌を遂げた。
このとき既に毛利元就は他界しており、
孫の輝元が最高指揮官として指揮しています。
元就の時代は信長と良好な関係を維持して
いましたが、輝元の時代になり次第に敵対
するようになっていました。
毛利家の方針には毛利両川と呼ばれた
吉川元春、小早川隆景の影響も少なからず
あったとは思います。
孫、輝元のおこないに、元就は墓の中で
どのような思いをしていたのでしょうか...
出典 http://www.amazon.co.jp
毛利元就生誕500周年記念作品として製作された、
NHK大河ドラマ「毛利元就」(1997年)の放映時は、
たくさんの人が訪れた郡山城跡
再び訪問してみました。
・百万一心
一日(百)一力(万)一心とも読める。
みんなで力を合わせれば何ごともなし得ることが
できるとの意味を込めたものと言われている。
百万一心石碑の由来
難航する郡山城の改修に際して、元就公が人柱に
代わり、「百万一心」と彫った石を埋めさせたところ、
改修工事がうまくいったという伝説です。
その後、幕末に長州藩士が山中で実物を発見したと
自書していますが、現在に至ってもその石は未発見の
ままで、郡山城最大の謎とされています。
そうなんです、あくまでも伝説なんです。
ただ、国人衆をまとめるために苦心した
元就公の人となりを思えば、実在した可能性も
決して否定できるものではないでしょう。
「三矢の訓え」でも元就公は結束・協調を
大切にするようにと説いていますから...
・毛利一族墓所
ちょっとわかり難いのですが、石柵で囲まれた
中心部のこんもりとしたところに一族の合墓が。
(郡山城初代城主・毛利時親~8代豊元まで)
その他、興元(元就の兄)、幸松丸(興元の嫡男)、
隆元の妻(大内氏の養女)の墓が各々あります。
この毛利一族墓所は、郡山城内、城下にあった
それぞれの墓を明治二年(1869)にこの洞春寺跡の
元就公墓所境内に移葬されたもの。
・墓所敷地内に休憩所があります。
本丸跡まで800mのところにある。
・安芸高田市歴史民俗博物館
(百名城スタンプ設置所)
毛利氏や郡山城に関する貴重な資料が豊富に
展示され、映像や模型などでわかりやすく学べる。
特に清神社棟札など中世の寺社奉納品は必見。
・毛利元就公墓所
中国地方を平定した戦国の勇将毛利元就は、
郡山城で生まれ、郡山城で75歳の生涯を閉じる
まで、戦乱の日々をこの安芸の国吉田郡山城を
本拠に過ごしました。
・洞春寺跡
洞春寺跡は、毛利元就の三回忌にあたる天正元年
(1573)に菩提寺として、孫の輝元が創建し、
元就の葬儀の導師を開山とした臨済宗の寺跡。
輝元の広島移城の際、広島城下に移ったが、毛利氏と
共に山口に移転、まもなく萩城下に移された。
明治二年(1869)、再び山口市内に移された。
ドラマの中で元就は、
「人生には三つの坂がある。上り坂と下り坂、
そして.....『まさか』だ」と言っています。
まさか毛利家が...
なんて思っていたりするのでしょうか?
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