軍師官兵衛と秀吉たちの使った貨幣は? [社会]
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、いよいよ
中国大返しに突入しますね。
軍師官兵衛と安国寺恵瓊との謀略により、
小早川隆景は毛利氏を代表して織田氏との
和睦を決め、清水宗治は切腹。
三原やっさ祭り
※三原やっさ祭りは、小早川隆景が三原城を築城した
ことを祝って踊ったことが始まりとされています。
その後、すぐに明智光秀の謀反によって、
織田信長が討たれたことを知るが、毛利家の
「領土の拡大は求めるな」に従い和睦を履行。
元々、領土の拡大を求めていなかった毛利家に
とって、去ろうとする敵を追撃する必要はない
わけですから、小早川隆景は適切な判断を
下したことになります。
それにしても、安国寺恵瓊は腹黒の怪僧ですね。
僧なのに、どんだけ野心家ナンダヨ!?
と、思ってしまいます
中国大返しでは、秀吉は姫路城に蓄えてある資財を
すべて吐き出す勢いで臨んだといわれています。
お米であったり、薪炭の類、人員、甲冑・槍刀類、
わらじや衣料品、医療品、牛馬や荷駄など、
そして、お金。
やはり、なんといってもお金の力は絶大だったでしょう。
では、この時代にはいったいどのようなお金が使われて
いたのでしょうか?
造幣局広島支局には、「造幣展示室」という
お金に関する展示室があります。
ここに展示されている史料から、官兵衛たちの
使っていた貨幣は「永楽銭」と思われます。
ここで少しお金の歴史について...
平清盛(1118年~1181年 平安時代)
【どんな人物?】
平安時代、平家が最も栄えた時代を作った武将。
貴族が中心の政治から武士が中心の政治へと変化させ、
1167年には武士として初めて太政大臣となる。
また、平家一門の繁栄を祈って宮島の厳島神社を
立て直させ、氏神として信仰した。
【この時代の貨幣は?】
皇朝十二銭(和同開珎(708年)~乾元大宝(958年)が
発行された約250年間の間、財政困難による改鋳が
くり返され、貨幣の質が落ち、国内で鋳造した貨幣
への信用が薄れ、あまり流通していなかった。
しかし、社会経済が発達するにつれて、貨幣の必要性が
高まり、中国(宋)から銅銭を輸入して国内の流通に
あてていた。これが渡来銭であり、平清盛が全盛のころ
から大量に輸入され、国内に流通していた。
(中国 宋時代の貨幣*淳化元宝、元豊通宝、聖宋元宝)
織田信長(1534年~1582年 室町~安土桃山時代)
【どんな人物?】
尾張(愛知県)の大名の子として生まれ、27歳の時に
駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間(愛知県)の戦いで
破って全国にその名を知らしめた。
1573年、室町幕府を滅ぼし、安土城(滋賀県)を築く。
(関所の廃止、楽市楽座)
全国統一の途中、京都の本能寺で家来の明智光秀の
裏切りにあい、自害する。
【この時代の貨幣は?】
朝廷が貨幣を鋳造しなかったため、明(中国)の
永楽通宝を使用していた。信長は高額品の取引には
金・銀を、それ以外は銭貨を使用し、金銀銭の
交換比率を定めた。しかし、銭貨の中には粗悪な
ものもあり、受け取りを拒否(撰銭・せんぜに)
する人が出たため、
撰銭令(撰銭禁止令)を出した。
戦国の覇者、信長は永楽銭の旗印を掲げていた。
※お金が流通することで、人々の暮らしが豊かになると
考えていたのかもしれないですね。
豊臣秀吉(1537年~1598年 室町~安土桃山時代)
【どんな人物?】
尾張(愛知県)の村に住む身分の低い武家の出身。
織田信長の家臣として仕え、やがて有力な武将となった。
信長を裏切った明智光秀を倒し、朝廷から関白に
任じられる。その後、10年足らずで大阪城を築き、
全国を統一した。太閤検地や刀狩を行い、百姓から
年貢を納めさせ、社会の仕組みを整えた。
【この時代の貨幣は?】
豊臣秀吉は金貨や銀貨をつくり、1588年には
「天正長大判」や「天正菱大判」などをつくった。
これらはおもにほうび用として使われていたが、
庶民はあいかわらず中国から輸入した明銭
(渡来銭)や鐚銭(びたせん)を使っていた。
※鐚銭の鐚(びた)とは、できの悪い銭のこと。
できの悪い銭でも、払いたくないということから、
「びた一文払わない」などとつかわれていますね。
徳川家康(1542年~1616年 室町~江戸時代)
【どんな人物?】
三河(愛知県)の小さな大名の子として幼いころは尾張の
織田氏や駿河の今川氏の人質として苦労をしていた。
成長するにつれて強い武将となり、その後豊臣秀吉の
家臣となり、秀吉の死後は多くの大名を味方につけて
勢いを強め、関ヶ原の戦いで全国統一をはたす。
1603年、朝廷から征夷大将軍に任じられ、
江戸(東京都)に幕府を開く。
【この時代の貨幣は?】
家康は金座・銀座を設置して金銀貨幣を統一し、
貨幣制度を整備した。金貨は「大判」「小判」
「一分金」、銀貨は「丁銀」「豆板銀」を造った。
しかし、庶民が使う銭貨については、1636年に
寛永通宝が発行されるまでの間、渡来銭や国内各地で
造られたさまざまな銭貨が使われていた。
軍師官兵衛と秀吉は、大量の「永楽銭」を
バラまいて、中国大返しという大事業をやって
のけたのかもしれないですね
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中国大返しに突入しますね。
軍師官兵衛と安国寺恵瓊との謀略により、
小早川隆景は毛利氏を代表して織田氏との
和睦を決め、清水宗治は切腹。
三原やっさ祭り
※三原やっさ祭りは、小早川隆景が三原城を築城した
ことを祝って踊ったことが始まりとされています。
その後、すぐに明智光秀の謀反によって、
織田信長が討たれたことを知るが、毛利家の
「領土の拡大は求めるな」に従い和睦を履行。
元々、領土の拡大を求めていなかった毛利家に
とって、去ろうとする敵を追撃する必要はない
わけですから、小早川隆景は適切な判断を
下したことになります。
それにしても、安国寺恵瓊は腹黒の怪僧ですね。
僧なのに、どんだけ野心家ナンダヨ!?
と、思ってしまいます
中国大返しでは、秀吉は姫路城に蓄えてある資財を
すべて吐き出す勢いで臨んだといわれています。
お米であったり、薪炭の類、人員、甲冑・槍刀類、
わらじや衣料品、医療品、牛馬や荷駄など、
そして、お金。
やはり、なんといってもお金の力は絶大だったでしょう。
では、この時代にはいったいどのようなお金が使われて
いたのでしょうか?
造幣局広島支局には、「造幣展示室」という
お金に関する展示室があります。
ここに展示されている史料から、官兵衛たちの
使っていた貨幣は「永楽銭」と思われます。
ここで少しお金の歴史について...
平清盛(1118年~1181年 平安時代)
【どんな人物?】
平安時代、平家が最も栄えた時代を作った武将。
貴族が中心の政治から武士が中心の政治へと変化させ、
1167年には武士として初めて太政大臣となる。
また、平家一門の繁栄を祈って宮島の厳島神社を
立て直させ、氏神として信仰した。
【この時代の貨幣は?】
皇朝十二銭(和同開珎(708年)~乾元大宝(958年)が
発行された約250年間の間、財政困難による改鋳が
くり返され、貨幣の質が落ち、国内で鋳造した貨幣
への信用が薄れ、あまり流通していなかった。
しかし、社会経済が発達するにつれて、貨幣の必要性が
高まり、中国(宋)から銅銭を輸入して国内の流通に
あてていた。これが渡来銭であり、平清盛が全盛のころ
から大量に輸入され、国内に流通していた。
(中国 宋時代の貨幣*淳化元宝、元豊通宝、聖宋元宝)
織田信長(1534年~1582年 室町~安土桃山時代)
【どんな人物?】
尾張(愛知県)の大名の子として生まれ、27歳の時に
駿河(静岡県)の今川義元を桶狭間(愛知県)の戦いで
破って全国にその名を知らしめた。
1573年、室町幕府を滅ぼし、安土城(滋賀県)を築く。
(関所の廃止、楽市楽座)
全国統一の途中、京都の本能寺で家来の明智光秀の
裏切りにあい、自害する。
【この時代の貨幣は?】
朝廷が貨幣を鋳造しなかったため、明(中国)の
永楽通宝を使用していた。信長は高額品の取引には
金・銀を、それ以外は銭貨を使用し、金銀銭の
交換比率を定めた。しかし、銭貨の中には粗悪な
ものもあり、受け取りを拒否(撰銭・せんぜに)
する人が出たため、
撰銭令(撰銭禁止令)を出した。
戦国の覇者、信長は永楽銭の旗印を掲げていた。
※お金が流通することで、人々の暮らしが豊かになると
考えていたのかもしれないですね。
豊臣秀吉(1537年~1598年 室町~安土桃山時代)
【どんな人物?】
尾張(愛知県)の村に住む身分の低い武家の出身。
織田信長の家臣として仕え、やがて有力な武将となった。
信長を裏切った明智光秀を倒し、朝廷から関白に
任じられる。その後、10年足らずで大阪城を築き、
全国を統一した。太閤検地や刀狩を行い、百姓から
年貢を納めさせ、社会の仕組みを整えた。
【この時代の貨幣は?】
豊臣秀吉は金貨や銀貨をつくり、1588年には
「天正長大判」や「天正菱大判」などをつくった。
これらはおもにほうび用として使われていたが、
庶民はあいかわらず中国から輸入した明銭
(渡来銭)や鐚銭(びたせん)を使っていた。
※鐚銭の鐚(びた)とは、できの悪い銭のこと。
できの悪い銭でも、払いたくないということから、
「びた一文払わない」などとつかわれていますね。
徳川家康(1542年~1616年 室町~江戸時代)
【どんな人物?】
三河(愛知県)の小さな大名の子として幼いころは尾張の
織田氏や駿河の今川氏の人質として苦労をしていた。
成長するにつれて強い武将となり、その後豊臣秀吉の
家臣となり、秀吉の死後は多くの大名を味方につけて
勢いを強め、関ヶ原の戦いで全国統一をはたす。
1603年、朝廷から征夷大将軍に任じられ、
江戸(東京都)に幕府を開く。
【この時代の貨幣は?】
家康は金座・銀座を設置して金銀貨幣を統一し、
貨幣制度を整備した。金貨は「大判」「小判」
「一分金」、銀貨は「丁銀」「豆板銀」を造った。
しかし、庶民が使う銭貨については、1636年に
寛永通宝が発行されるまでの間、渡来銭や国内各地で
造られたさまざまな銭貨が使われていた。
軍師官兵衛と秀吉は、大量の「永楽銭」を
バラまいて、中国大返しという大事業をやって
のけたのかもしれないですね
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